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てらてつとは?

「てらてつ」の始まり

通称、「てらてつ」。
「お寺で哲学する」は2015年、東京は港区三田の龍源寺さんから始まりました。
龍源寺さんは、福沢諭吉が啓蒙思想を広めたお寺です。
このような歴史あるお寺で、「てらてつ」は開幕しました。
まずは、「てらてつ」メンバーからの意見・感想を紹介しましょう。
◆思っていた以上に人生は豊かで多様であることを知りました
◆選択肢はもっとたくさんあることがわかりました
◆人生を正解か不正解で判断しないようになりました
◆自分が選ぶことが楽しいと気づかされました
◆迷っていてもいいことを教えられ、リラックスできました
◆てらてつは「家庭」を穏やかにしてくれます
◆学校を休んでいた子が勉強を再開しました
◆思っていた以上に子供はしっかり考えていることに気づかされました
◆子供と会話するきっかけになっています

あなたにとって「哲学」とは?

て、あなたにとって「哲学」とはどのようなものでしょう?
多くの方には抽象的で小難しいイメージを持たれる哲学ですが、それは哲学のほんの一面でしかありません。

これまで哲学はどのような貢献をしてきたでしょうか。

「理想的な社会とは?」「幸せとは?」「正しい法とは?」「他者とは?」「豊かな国とは?」など、人間に関わる種々様々な問いに答えることで、科学や産業や国造りなどの発展を支えてきました。

うして、哲学は私たちの生活の土台となってきました。
これを言い換えれば、あなたも私も、哲学しながら暮らしている、ということなのです。

そして今や、AIの時代。この時代に哲学はどのような貢献ができるでしょうか。

AI時代の哲学とは?

ータ化された知の蓄積と分析では、AIは人間を圧倒するでしょう。データ化されている限り、AIはどのようなケースにも応じて「正しい答え」を提示することができます。それも即座に。
一方、人間はどうでしょうか?

記憶にも限界がある。
行動にも限界がある。
寿命にも限界がある。

つまり、人間には限界があります。

かし、AIが持たないこの「限界」こそ、哲学の始まりと言えるのです。この限界の中で、人間の限界を最も知らしめるもの、人間を人間たらしめるものが、身体なのです。

身体を持つものだからこそ、哲学が許されているのです。

共感力も、身体的なものです。
判断力も、身体的なものです。
表現力も、身体的なものです。

身体への自覚がない哲学を語ることは不誠実、一種の詐欺になってしまいます。

学とは人間なるものを体験していくものです。
頭だけでなく、私たちの全身で触れ、全身が動かされるものなのです。

「てらてつ」に参加しませんか?

AIの時代だからこそ、人間であることを取り戻そうではないですか。
そうすることでようやく、AIとの共存ができるようになるはずです。与えられた問題に「正しく答える」だけならAIに任せようじゃないですか。
私たちは、問題を見出すことができるはずです。ずらっと並べられた選択肢外の選択肢を創り出すことができるはずです。

「てらてつ」はお寺で開かれます。
お寺の門をくぐれば、年齢も仕事も肩書きも関係ありません。上司だろうが部下だろうが、学生だろうが社会人だろうが、大企業の社長だろうが主婦だろうが、誰もが対等になります(実際に、上司も部下も社長も主婦も学生も対等に参加されています)。

生に優劣などありません。
どの人生も唯一無二のものです。そんな唯一無二性が、「てらてつ」という場で交流します。この交流によって、あなたの人生が豊かに健やかになります。
これは、限界があるからこそできる豊かな交流なのです。

「てらてつ」は誰にも開かれています。

「AI時代の人間とは?」
「てらてつ」で、この問いへの答えをいっしょに見出していきませんか?
そして、AIの時代の人間の模範となっていきませんか?

ンバーと大竹は、あなたのご参加を心からお待ちしています。

「てらてつ」の流れ

開始前 境内散策
坐禅 (15分から20分)
法話 (10分から15分)
哲学対話(一時間半)