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「知」から「視点」へ

んにちは。
いきなりですが、あなたは哲学を使ったことはありますか?

「哲学を使うって、なに変なこと聞いてるの?ふざけてるの?」
とページを閉じてしまう前に、ちょっとお付き合いください。
哲学には、様々な使い方があります。そして、あなたもすでに「哲学を使っている」んです。
なんてお話をさせていただきましょう。

ず、信条のような意味合いで哲学を使うこともあるでしょう。
例えば、「経営哲学」。創業者の信条や理念が「哲学」という言葉で表現されますね。
あるいは、看破した真理という意味で使われることも。例えば、「人生哲学」。これまでの人生を通して見抜いた道理や訓戒を指すでしょう。
哲学的な発言。こんな使い方もありますね。混乱した事態の本質をズバッと言い当てたものでしょうね。
哲学的な人、と言えば、どちらかというと言葉少なく、日常的に思索にふけることが多い人のことでしょう。
そんな知人、いませんか?
あなたは、「哲学の道」を歩いたことはありますか?京都東山にある道が最も知られているでしょうか。
しかし、探してみれば、色々なところに「哲学の道」はあります。
ビルの合間にはありえませんよね。山あいにある水辺の道。騒々しくなく、空気の美味しい道。そんな道が、哲学するのにふさわしいのでしょうね。

っぽう、研究者たちの哲学は専門的な知識を扱うものです。
例えば「ソクラテスの哲学」。これは、ソクラテスを代表とする歴史に名を刻んだ「哲学者の哲学」を研究するものです。
自分自身で哲学するものではありません。哲学者たちの文献を頼りにするものです。だから、どうしても、概念的なものになってしまいます。
このような哲学の一面は、多くの人にとって、捉えどころもなく、味も素っ気もなく、役にも立ちそうにない、こんなイメージを持たせてしまいます。

かし、本来、哲学とは営みなのです。それも身体的な営み。
どういうこと?って思いますよね。

ありがとう!

こんなクエスチョンマークが大事なんです。言い換えれば、この時点ですでに、あなたとの哲学が始まっているんです。

ども禅大学」は、本来は「身体的な営み」である哲学を馴染みやすいものにする、というミッションを受け誕生しました。
さらに、AIと共存する時代に向けた新しい哲学の本でもあります。

「こども禅大学」には、あなたたちと共に作る時代へのヒントがちりばめられています。
これからの時代には、「知」より「視点」が求められるのです。

ころで、これまで哲学は私たちにどんな貢献をしてきたでしょうか。

「理想的な社会とは?」という問いへ答えてきました。例えば、民主主義やコミュニズムといったものがありますよね。
「人間の幸せとは?」にも答えてきました。アランやラッセルたちの『幸福論』がありますね。
ほかにも、「正しい法とは?」「精神とは?」「他者とは?「豊かな国とは?」などなど。
それらの答えを一つの知として誰にでも利用できるようにする。これが、哲学の役目であり、だから哲学は科学や産業の発展を支えてこられたんです。

元前から、哲学は「知」を提供しながら、あらゆる分野の土台としての役目を果たしてきました。「知は力なり」という格言は、まさに知の力を的確に(的確過ぎるほどに)表現しています。

ここから、ちょびっと難しくなります。この先は、あなたの好奇心次第です。

の「知は力なり」が曲者なんです。これが、「知の量が力の大きさを決定する」という抑圧へと進んでいってしまうのです。そして、「知」に価値付けがされていきます。価値のある知をどれだけ多く保有しているか?
これが権力や成功への条件となってきます。こうして知に階級ができ、知の階級がそのまま人間社会における階級を形成します。

本来、知とは誰にでも開かれたものであるはずですが、権力と結びつくことで、知は人間を格付けし、排除していくものになっていきました。

シェル・フーコーというフランスの哲学者がいます。
彼は、知がいかに人間を支配していくか、その構造を暴き出しました。

知は好奇心に影響します。
あなたにも私にも自然に備わっている好奇心が、知によって退化してしまうんです。
知が権威となり、知が秩序となる。そうすると、人間本来の好奇心が損なわれてしまうんです。なぜなら、私たちは「知ると都合が良い」ことを手に入れようとするからです。それは、本来の私たちに備わった好奇心ではありません。

知は、哲学そのものも変容させてしまいます。
知に拘束されてしまうと、哲学は、既に知っていることを正当化するものになってしまうんです。
もちろん、これは、本当に「哲学する」ことではありません。

このような権威となった知は、一層専門化されていき、それが社会構造を具現化し、民衆を支配していきます。

後に、知は自分自身との関係も変化させていきます。「自分とは?」は、古来より一貫して哲学の大きなテーマでした。その都度、答えが出されていきます。それは、知として言語化されます。こうして言語化された知は権威を持つようになるのです。
この権威となった知に抗うことはできません。私も、もちろんあなたも。
この知は、自分を対象化する知でもあるんです。
つまり、「自分とは?」に答えてくれた哲学者の答えに合わせた自己を求めてしまうんです。
それは、本当にあなた自身ですか?
こうして、私たちは自分自身と疎遠な関係になってしまうのです。
自分と疎遠になってしまった自分自身をどのように解放させるべきか?ここに挑んだ哲学者たちがいました。フーコーもその一人です。
フーコーの答えが、「外的世界と関係する自己に配慮する」ことでした。それは「眼差し」というものを介した、身体や姿勢への配慮なのです。

うして、今、私たちは「知」から再び解放されました。
しかしそれは表面的でしかありません。
確かに、私たちは、その気になれば、どのような知も享受できます。教育現場で知の差別や選別が起こるはずもなく。インターネット上でも「知る」ことを禁止されたり抑制されたりすることはありません。

ころが、「知」が誰にでも開放されると、今度は別の、思いもよらぬ罠が待ち受けていることを認めることになります。
「知らない」ということは「バカ」で「負け組」である、という脅迫的な空気感にさらされるようになってしまったのです。そして、「知」が開放されたせいで、紛い物がずいぶん、氾濫するようになってしまいました。

しかし、これらも時代の要請と言えるでしょう。

問題はここからです。

題は、「AI時代に哲学はどのような貢献ができるか?」なのです。

哲学とは人間なるものを体験していくものです。そして、身体への自覚がなければ人間について考察できないでしょう。ましてや、身体への自覚がない哲学を語ることは不誠実、一種の詐欺になってしまいます。

「こども禅大学」があなたと共有していきたことは、何よりもまず、身体的な行為へと回帰することです。それが、「知」から「視点」へ転換なのです。

」は単独でありえます。だから誰でも利用できるのです。各々の特殊な事情に依存するものは、知になり得ません。知とはすべからく、普遍的一般的であるべきなのです。
一方で、視点はどうでしょうか。視点はそれ自体でありえません。常に「見る」という行為とともにあります。インターネット上にあるものは、知であっても視点ではありません。視点とは用いられることでようやく、視点たりえます。そして、視点は「自分」不在では成り立知ません。
人の知を拝借できても、人の目を借りて見ることはできないのです。
ここが、「知」との最大の違いでしょう。

リンゴを例にしてみましょうか。

、名称、種類、味、色、形、匂い、天候、地理、値段、価値、流通、理想、誠実さ、信念、伝統など、一個のリンゴだけで知るべきものは無限にあります。いやむしろ、一個のリンゴから世界を知ることができる、とまで断言できるでしょう。
しかし、こんな一個のリンゴ自体が、どんどん変化していきます。変化は尽きることを知りません。ということは、リンゴについて全てを知ることはできないのです。
そうすると、「知の欲望」に取り憑かれた者は、リンゴについて無尽の知を集めることに執着する余り、リンゴを前にして一歩も動けないまま、一生を終えてしまうことになるでしょう。

知は、人を膠着させてしまうのです。

は、リンゴを「見る」とは?
それは、リンゴとの関係において様々な視点を持つことです。そして視点は、知と異なり、人を移動させ成長させるのです。
視点を変えるということは、リンゴの周りを巡ることです。かがんだりジャンプしたりすることです。なんなら、リンゴに潜ることもあるでしょう。そして、リンゴに関わるあらゆるものを体験することです。

ほら、どうでしょう?
視点を移すとき、すでにあなたは動いていますよね?
それは、あなたを成長させていることでもあるんです。

」と「視点」について、もう一つだけお話しましょう。

あなたが誰かと意見の相違があったときを想定しましょう。
そしてあなたはこう言われます。

「それはあなたが知らないからだ」

もう一つ、想定してみましょう。

「それはあなたとの視点の違いです」

いかがですか?

「視点の違い」という表現で、これからも仲良くやっていけそうじゃないですか?
「こんなこと知らないあなたはバカだ」と言われたら、どうでしょう?思わず拳を握ってしまいそうじゃないですか。

れからは、SDG’sの時代とも言われています。
相違は「知」にあるのでなく「視点」にある。そう考えるだけで、SDG’sが身近になりませんか?

知は階層を作ります。だから、「知らない」という一線を越えることは、記憶力や理解力や計算力など、様々な障害を伴います。
いっぽうで、視点の変化は至極容易です。なぜなら、自分が移動すればいいのですから。

」から「視点」への転換は、AIとの共存へのきっかけになるはずです。なにせ、知の蓄積と分析においては、AIが私たち人間を圧倒することは、火を見るより明らかなのですから。

私たちは、当然ですが、AIではなく人間なのです。そして、人間とは「視点」を持つ身体的な生き物なのです。

んにちは♫赤ちゃん♫」
パソコンをポチポチしながら、この歌を聞いています。
赤ちゃんの目が開く。親にとってこれほど嬉しい瞬間はないでしょう。

目が開く。その時、私たちは、温もりや優しさや慈しみ。ときめきに希望。様々なメッセージを読み取ることでしょう。

「はじめに」をそろそろ終えましょう。

によって私たちは階層化され分断させられるのなら、視点は私たちを、再度、繋げてくれるはずです。
哲学することは人間に備わった身体的な営みなのです。それは、他者への温もりや優しさや慈しみを呼び起こすものなのです。
そして、これからの時代への希望ともなるものなのです。

たちはこんな祈りを込めて、「こども禅大学」をあなたに届けます。