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自閉スペクトラム症(ASD)と診断された5歳の娘に贈りたい 「徳川家康の遺訓」に込められた想い
2024年7月13日

東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「こども禅大学」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。迷い、紆余曲折しながら生きることを全肯定する氏は、「障害」というテーマを哲学的に考察している。社会の趨勢を知る軸ともなる特別寄稿。第4回。


徳川家康(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

 「障害と自由」をテーマにしたコラムは、ここで4回目。今回は、三河生まれの私にとって、最も馴染んできた戦国武将に登場してもらいます。

 徳川家康です。

 天下布武を成し遂げた三傑の中では、どうやら一番の人気ナシのようですが、彼こそ「障害があるままに自由になる」ことを教えてくれた人物です。そして彼の生き様は、私の娘の「重荷」との付きあい方のヒントになっています。

 徳川家康の遺訓に「不自由を常と思えば不足なし」があります。全文を紹介しておきましょう。

「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝事ばかり知りて、負くる事を知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」

 根本的に、私たちは不自由である。そもそも「自分は自由である」なんて思い込みこそが己を縛ってしまうのです。なんでもできるという先入主こそが、いつまでも埋まらない不足の穴を生んでしまうのです。

 禅の教えに、「自由」とともに引き合いに出される言葉があります。「任運」です。自分も他人もあるがままに受け入れることを意味します。絶対の受容です。

 この絶対性をしばしば人間は見損なってしまいますが、どうしようもなく避けられない絶対の受容があります。それが我が子です。

 私の娘は5歳の誕生日を迎えた3ヶ月後、今年の2月に「発達障害」の診断を受けました。自閉スペクトラム症、いわゆるASDです。

 その診断を受けた場所には、もう一人、お母さんがおられました。診断を受けたお母さんは、気も狂わんばかりに涙を流していました。そして妻も、その日は放心状態になってしまったそうです。

 いっぽうの私にとっては、「やっぱり!」が素直な気持ちでした。虫や花への興味、没頭する様子、マイペースにマイルール、「変わっている子だなぁ」という喜び。まるで自分を見ているようだったのです。得心しました。そして決意したのです。

 その場の私は、医師や心理士たちに向かって「ヨシ!ワクワクする!」と言い放っていました。ずいぶん仰天したことでしょう。

 発達障害は、英語では《developmental disorder》です。《disorder》はあまり馴染みのない単語ですが、もう一つ、《disability》という語も用いられます。「障害」は、医療的意味では《disorder(~症、不調)》、福祉的意味では《disability(不自由)》と、大きく使い分けられます。他に障害を意味する英単語には、《hindrance(妨害、足手まとい)》、《obstacle(邪魔, 障害物, 妨害物)》、《barrier(バリア, 障壁)》、《trouble(病気、心配、苦労、迷惑)》、《hurdle(ハードル, 関門)》などがありますね。

 さて、「定型」や「標準」に縛られてしまった思考の持ち主にとっては、これらの「障害」のどれもが、忌み嫌われるものでしょう。「一般人にできて自分にはできない」「自分が平均以下になる」「他の人ができるキャリアの妨げとなる」のが「障害」であると、彼らは思い込んでいます。

 しかし、この思い込みこそ「不自由を常と思えば不足なし」からどんどん離れていき、結局は「一般人」ばかり追いかけて自分すら見失ってしまう原因となるのです。根本的に、私たちは不自由なのです。不自由のまま、足りているのです。障害のあるままで自由なのです。

 「不自由なき自由」思考は自分自身を苦しめるでしょう。そして「不自由なき自由」思考者たちが共生を阻み、未来を貧しくしています。成功と安定しか眼中にない資本主義型一択思考の人間は、この道理にはなかなか気づけません。しかし、障害を抱えるこどもとその親、そして支援者たちは、肌と心で「不自由を常と思えば不足なし」を感じ取るでしょう。きっと、発達障害の子どもたちが人間のなんたるかを証明する時代になるでしょう。

 自由なき不自由は非情で残酷です。またその逆、不自由なき自由こそ愚かで哀れです。「不自由であるからこそ自由である」、この哲理を発達障害の子どもたちが教えてくれるでしょう。

 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」。障害があるままでいいじゃないですか。失敗してもいいじゃないですか。道を外れてもマイペースで歩けばいいじゃないですか。「任運」は自分の思う通りになりません。それに逆らえば、自縄自縛の悪循環。しかし、「任運」によって自分に素直になることで、流れが好転していきます。その先にようやく、「自分」が見えてきます。

 「障害」なるものはしばしば忌避されるものです。障害は順風満帆だったキャリアを壊してしまうもの、なんて考えられているようですが、ずいぶん息苦しい縄で自分を縛りつけていますね。彼らに自分なるものを見極めることなど不可能でしょう。自由は「自分に由る」のです。自由は制限や不自由、そして障害の内に芽生えるのです。

 奇しくも、娘の誕生日は家康と同じ日です。

 「及ばざるは過ぎたるより勝れり」。自分も及ばないところばかりの人間です。家康のこの遺訓を、ASDでも全然、元気でエネルギッシュに遊んでいる愛娘に贈ります。

文:大竹稽

https://www.kk-bestsellers.com/author/?param=Kei%20Otake