東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「こども禅大学」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。迷い、紆余曲折しながら生きることを全肯定する氏は、「障害」というテーマを哲学的に考察している。社会の趨勢を知る軸ともなる特別寄稿。第1回。
「水五則」なる人生訓があります。
一.「自ら活動して他を動かしむるは水なり」
二.「常に己の進路を求めて止まざるは水なり」
三.「障害にあい激しく其の勢力を百倍し得るは水なり」
四.「自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せて容るるの量あるは水なり」
五.「洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霞と化して凝っては玲瓏たる鏡となり而も其性を失はざるは水なり」
NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公にもなった黒田如水作と言われていますが、漢文の体をしていますが粗がある現代風な作りや、「蒸気」のような科学用語が用いられていることから検分すると、どうやら如水作ではなさそうですね。しかし、ここは出処を検証するところではありません。黒田如水の「水の如き」生き様に紐づけながら自分の生き方に照らし合わせ、連綿と受け継がれてきたその力こそ、注目すべきところです。研究者たちには「偽作」や「作者不詳」は許せないかもしれませんが、それでもいいじゃないですか。
「自分に照らし合わせられる」人生訓には、それこそ鏡のように反映させる水の如き力があるのです。
「如水」とはまた、粋な法号を名乗りましたね。「水五則」は禅の僧侶たちに好まれますが、その作者とされる黒田如水もまた禅僧たちに好まれる人物。彼はこんな辞世の句を残しています。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道は迷よわし なるにまかせて」
「なるにまかせて迷わず遂に逝く」
禅の教えそのものと一体化した人物だったのでしょう。しかし、この黒田孝高がキリシタン大名であったことは周知の事実。洗礼名は「ドン・シメオン」、「Simeon Josui」というローマ字印を用いていました。「シメオン」とは、「耳を傾ける」を意味します。もちろん後半の「Josui」は出家後の号をローマ字にしたものですね。
きっと彼は、仏教とかキリスト教とかいう枠組みすら超えてしまっていたのでしょう。戦国武将での「推し」はみなさんそれぞれにあると思いますが、私のそれは昔から「両兵衛」でした。黒田官兵衛と竹中半兵衛ですね。でもどちらか一人を選べと強いられたら、どうしても官兵衛になってしまいます。
◾️なぜ官兵衛は動乱の世の中で「水の如く」あろうとしたのか?
官兵衛は動乱の世の中で「水の如く」あろうとしたのでしょう。水、そして川や海には、わたしたち(特に日本人)の感性を刺激するなにかがあるようです。昔から水は「時の流れ」「無常」の例えとして詠まれています。
方丈記の全編を読まれていない方でも、冒頭の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」は耳にしたことがあるのではないでしょう。諸行無常、世のはかなさとその尊さが、「川」によって表現されています。
辞世の句(現代語表記に直します)、「思い置く言の葉なくてついに行く、道は迷わじなるにまかせて」など、まさに日本の美意識がこの一句に凝縮されていると言えるでしょう。
死にゆくその一点で生が「なるにまかせて」として紐解かれるとは、これこそ「水の如く」の真骨頂なのではないでしょうか。
さて、この五則を読んでのアルアルですが、あなたのお気にいりの一句はどれでしょう?
禅僧たちと話をしていると、必ず主題になるのが第二則です。
「つねに己の進む道を求めてやまざるは水なり」
己を鍛え、磨き、徹底的に究明しようとする禅宗らしい一節ですね。
力強いこの句から、水の「道」とは、障害のない平坦な道でないことが読み取れます。巨岩が行く先を遮っていたとしても、滝のような落差があったとしても、立ち止まったり落ちたり、道を変えたりしながら水は進みます。そしてそれが、振り返ってみたら「なるにまかせて、道になっていた」と認められるのでしょう。「なるにまかせて」にはあきらめが読み取れることは確かですが、これは放棄を意味するあきらめではありません。あらゆるものを経験し、己を貫いた如水だからこそできた、触れる人間たちを鼓舞するあきらめです。
この力強さが際立つのが第一則「自ら活動して他を動かしむるは水なり」です。これは、しばしばリーダー向けのメッセージとして引用されます。戦国時代の英雄譚で物語となる官兵衛は、「自ら活動して他を動かしむる」の権化と言えるでしょう。
◾️リーダーとしての資質とは?
私としては、リーダーなるものの資質に欠けていると自分を振り返って痛感しますが、それでも事を成すためにはどうしてもリーダーとしての役目を自分が担わなければならない時もあります。特に、前例のないプロジェクトに挑む時は、行動によって他人を動かしていかなければなりません。 官兵衛のような智慧も胆力もない自分ですが、「自ら活動する」ところだけは肝に銘じています。現代のインフルエンサーのような影響力など自分は望みませんが、「自ら活動して他を動かしむるは水なり」を徹底することで、自分の身に相応な、制限つきの影響力を持てるはずだと信じています。
「自ら活動して他を動かしむるは水なり」と「常に己の進路を求めて止まざるは水なり」のどちらからも、障害や逆境や不運をなるにまかせ自由に生きていこうじゃないか!という「如水」からのエールが聞こえてきます。
「障害」なるものはしばしば忌避されるものです。障害は順風満帆だったキャリアを壊してしまうもの、なんて考えられているようですが、ずいぶん不自由な縄で自分を縛り付けてしまっていますね。障害などないようにふるまおうとする「いつでもポジティブ」なんて甘っちょろい人間もいますが、いったいどんな辞世の句を残すのでしょうか、哀れです。
「障害!どんと来い!」と腹を据えられ時こそ、本来の自由に覚醒するのです。夏目漱石の言葉を借りれば、「則天去私(そくてんきょし)」になるかもしれません。運を天に任すとは、全力を出し切ること、分け隔てなくみなに誠実であることと表裏一体なのです。「あきめる」とは、そもそも「明らめる」こと。障害があればこそ、己の可能性が見えてくるのです。己の究明には障害が欠かせません。障害があるままに、障害を受け入れしかもそれを楽しみながら、自分の手足を使って道を進むからこそ、ようやく「自己」が明らかになるのです。
次回は第三則、「障害にあい激しく其の勢力を百倍し得るは水なり」に注目します。私はこの句に自由の本質を認めるのです。
文:大竹稽